楽東黎族自治県尖峰鎮 黒眉村
「黒眉嶺根据地的民兵」(海口市委宣伝部・海口警備区政治部・海口市委党史研究室『勿忘歴史 警鐘長鳴――紀念抗日戦争勝利60周年展覧』2005年9月より)
邢亜响さん(1923年生)
日本軍と戦った当時使った
弓矢をつがえる邢亜响さん
邢亜响さん
「日本軍と何回も戦った。射って、さっと場所を変えて、射って、また場所を変えて、射った。
自分たちの銃はよくなかった。火縄銃だ。火薬を入れて使う。銃はいまもある。弓も使った。矢じりは鉄だった。
仲間は50人くらい。みんな黒眉村の人。女性もいた。女性兵士は、炊事をした。
機関銃を持つ日本軍とたたかうのは恐くなかった。死ぬことを恐れなかった。死んでも、光栄だと思った。日本兵を殺して銃を奪った。
7日間、連続して戦ったことがあった。戦って逃げて、戦って逃げて、戦って逃げた。歌いながら戦った。遊撃隊は、みんな歌えた。 黒眉村は、まえは老包嶺のふもとにあった。今は人は住んでいない。解放後、村はここに移った」。
風田村
邢亜光さん(1929年生)
邢亜光さん
「日本軍が来るまでは、農業をしていた。
小さいときから、苦しい生活だった。両親は日本軍に殺された。両親が殺されてから、遊撃隊に参加した。隊長は張克治。武器は拳銃。
黒眉村にいたとき、日本軍から攻撃を受けた。村は全部焼かれた。日本軍の基地は近くの嶺頭にあった。黒眉村でおおぜいが殺され、生き残った人は山のほうに逃げた。
日本軍の飛行機が尖峰嶺に爆撃しに来たことがあった。解放軍の志願軍の隊員として、命令を受けて朝鮮戦争にも参戦した。朝鮮人と人民解放軍は連合して戦った」。
水馬田村(現、尖峰村)
符亜秋 さん(1923年生)
符亜秋さん
「道路工事は、ほとんど台湾人がした。私は木を運んだり、並べたりした。昔は山に住んでいた。 日本人につかまって、仕事をさせられた。殴られなかったが、食べ物は少ししかくれなかった。
日本軍の兵士だった台湾人が機関銃を盗んで鉄条網から外に出して姉とわたしに渡してくれた。その台湾人と姉とわたしは、盗んだ機関銃を黒眉村にいた共産党員に届けた。ほかに3人の台湾人も黒眉村に行った。黒眉村は共産党の根拠地だった。その台湾人は姉と結婚したが、戦死した。
わたしは、黒眉村の戦闘には参加しなかったが、米や野菜など食料を運んだ」。
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